「第1章 人間中心のテクノロジー」に関するトークページ
rashita.icon試運版のページです。
いろいろな人のメモやらレジュメやらで気になったところをピックアップしながら、第一章についてのトークを繰り広げられたら言いな、と個人的には願っています。
rashita.icon全体的な内容としては、テクノロジーと私たちの関係の基礎を確認するような章でした。本書の今後の核となる二種類の認知の話も早々に出てきます。
rashita.iconこの章ではなく、タイトルに関してですが、TsutomuZ.icon さんが"なぜ訳者は「ものとこと」を「道具」としたのか?"という疑問を提示されていて、一応倉下なりの考えを書いてみました。
rashita.icon章の中身で言えば、yasumi.iconさんが「心」という表現に注意を向けられていたのが印象的でした。
倉下はさっと流して受け取っていた感じがあります。
原著では「Mind」が使われており、その翻訳として「心」があてられているわけですが、「精神」と訳してしまうと若干固くなりすぎる雰囲気は予想できます。
「心」と訳したことで何か問題が生じるのかどうか、生じるとしたら(本書の目的に則して)それはどんな問題なのかはちょっと考えてみたいお題ではあります。
yasumi.icon「心」はさまざまな受け取り方ができる言葉だと思います(私は心理操作・商業利用されやすいものと捉えます)。一度自分なりの定義を忘れて、ノーマンの言う通りに「心」を受け取る必要があると感じました。
yasumi.iconこちら拝見し、最後のコメントの『「機械中心になりすぎている状況に、もっと人間の視点を取り戻そう」くらいのスローガン』との言い換えが印象的でした。原文について触れられていたので引用します。
My goal is to develop a human-centered view of the technologies of cognition. My theme is not anti technological, it is prohuman. (36p「人間擁護」の所)
yasumi.iconcyoiyakiさんのメモの中で、「メンタルなものをうまいこと使えるようになっていると思う。」との言葉が印象的でした。UIやUXとかをイメージされたのでしょうか?
choiyaki.icon本書でメンタルなものとして例示されてたものは、読み書きのスキルや算術、論理、記憶術とか仕事の進め方などでした。で、それらって脳科学や認知心理学、行動分析学などの発展によって人間に対する理解が進み、当時よりもどんどん効果的な理論や方法が生み出されているというのではないかな、と思ったので書きました。間隔学習とかは記憶術の進歩であって、人間への理解が深まることでメンタルの使い方がうまくなってる一つの例になるかな、と思います。 yasumi.icon←間隔学習!本の読み方のヒントにもなるコメントありがとうございます。
rashita.iconあとレジュメについての補足、ありがとうございます。
というわけで、それぞれの行にインデントしてさらにコメントをつけていただくか、新しい行として新しいコメントを立てていく形で書き込んでいただければ幸いです。